葉月のスキズキ

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<<   作成日時 : 2007/04/28 23:00   >>

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ちょっと前のエントリで「若い人にばかり目が行ってしまう傾向」みたいなことを書いたけれど、洋の東西を問わず、年齢が上がるほど人の美醜に関する判断が甘くなるのは多くの心理学的な調査で明らかになっている。

あれはわざわざ学術的な調査結果を見るまでもなく、長年生きている人間にとっては当たり前なことのように見えるけど、そんなに単純なことなのだろうか。
幼い女の子はもちろん可愛いし、顔立ちの整った子なんか笑っているところを見ると心の底から天使のようだと思う。若いころは子供を見ても可愛いなんて思わなかった。しかし最近はまったく変化している。男女限らず単に可愛いと言うだけではなく、子供というのはきれいだ。肌や髪のつやがまるで違う(まずい、これはあぶない発言か)。聞き流していただきたい、私のmixi日記を読んでいる人はよく知っていると思うが、あの徹底的な地味さは要するに「孫の顔をみることだけを楽しみに待っている生活」を現しているのだから。

(ちなみに心理学の常識では最も他人の美醜に厳しいのは二十歳前後の女性らしいが)歳を取るごとに人の美醜に対する感覚が甘くなると言うのは、生活の場面に応じて考えると概ね良いことである。いわば年々まわりに美人が増えていくわけだ。実にありがたい話である。どんどん極楽状態が加速されついには気が付いたときは棺桶に片足どころか両足突っ込んでいるということになっている。ちょっと出来すぎの話で眉につばしたくもなるが私自身実感は強い。

眉唾というのはたとえば、よく思い出してみると若いころは何を食べてもおいしかった。このブログの読者には自他ともに許す若い人もいて、もしかしたら別に日々おいしいなんて思ってないよなんて「宇宙の如く私語する」かもしれないが、二十年後には何でもおいしかったことに気づくはずである(断言!)。私だって昼は江古田のあのライスおかわり自由のラーメン屋で何杯もお代わりしたし夜はサントリーホワイトをロックでどうかすると十杯ぐらい平気で空けていた、って何の話だ。
性欲と食欲を近しいものとして捉える考え方に我々は慣らされてしまっているが、他者の美醜への反応という優れて性欲の経路にあるかもしれないと予想される感覚に関しての加齢にともなう変化は、食欲とそれに付随する感覚の変化とはまるで質的な相違があることは是非言っておきたい。言うなればどんどん回りは美しい人ばかりになっていくのに、口するものはまったく美味しく感じられないという状態というのは珍しくないのだ。

閑話休題。

同じエントリで石川淳『修羅』についてちょっと触れた。あの中で新左衛門の「捨てたくもあり捨てたくもなし」という七七に、一休が「いつわりと知れども恋のさそひ水」と五七五で応じる場面があるのだけれど、あれって一般的な習慣なのでしょうか? たしかいつかうさぎさんも話題にしていたような気もしますが。下の七七に対して上の五七五をつける?
でもああいうやり取りってもしかしたら四童さんや天気さんは日常的にやっているのかもしれない。怪しい。

石川淳の長編をありがたがった読んでいる人って幸か不幸かよく見かけたのだけどどうも理解できない。短編はあんなに面白いのに、長編はどうしてあんな調子なんだろ(幸か不幸か私は全部読んだ、何故だ?)。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
前句付け、ですね。当時は一般的に広く行われていたようです。
通りすがり
2016/08/23 19:31

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